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親王フアン・デ・カスティリア・イ・カストロ

ドン・ペドロとホアナ・デ・カストロの子、親王フアン(1355-1405)
2人の結婚の翌年に生まれ、その短い結婚生活とドン・ペドロの遺言書に見られる後継者名の改竄から、真の嫡出子かどうかで議論されている。
本人もその子孫もドン・ペドロの末裔であることに強い自信と誇りを持っていたことは間違いない。

コンスタンシアの名でカスティリア王位を要求していたランカスター公とカスティリアの間に和平調印がなされたとき、和平保証の質として親王フアンが指名された。ドン・ペドロの王女たちに継ぐ王位継承者であったことが大きな要因ではあるけれど、彼を人質にすることを提案したのは義兄弟にあたるランカスター公ジョン・オブ・ゴーントである。ひでぇ。

この時までホアンは母ホアナ・デ・カストロと共に過ごしていたのではないかと思われるが実情は不明。
1386年フアンはソリアの要塞に幽閉されたが、この城砦の守備隊長の娘エルビラ・デ・エリルと結婚する。高貴な囚人に対しては相応の待遇がなされていたために結婚も可能であったようだ。
叔父のアラゴン王ペドロ4世に幽閉されたマジョルカ親王ハイメ・デ・マジョルカ(ハイメ4世。母はペドロ4世の妹)も、檻に閉じ込められるのは夜間だけだった。
フアンの異母弟にあたるドン・ペドロの庶子に対しては、このような配慮はされなかった。エンリケはドン・ペドロを殺害後、幼い庶子らを捕らえ投獄。生き残った者でさえ、釈放された時には満足に歩くこともできないほどだったという。

親王フアンとエルビラの間には2人の子供が生まれた。
1人目は祖父の名をとってペドロと名付けられ、オスマとパレンシアの司教となる。教会に献身する以前、カタリナ・デ・ランカスター付きの英国人女官との間に子供を4人、サラマンカの若い召使いとの間に更に4人の子を持った。子供たちの多くは修道士、修道女となり院長の座に就く者が多い。うち1人は王太子フアン(カトリック両王イサベルとフェルナンドの長子)の養育掛となった。
2人目はコンスタンサ。ドン・ペドロの娘でありカタリナ・デ・ランカスターの母であるコンスタンシアから付けられた。

フアンはその生涯のほとんどをソリアで過ごし、最期の時もこの町で迎えた。エンリケ王(おそらくエンリケ3世)の命令でフアンはソリアの町のコレヒアータ・デ・サン・ペドロに埋葬された。「コレヒアータ」は司教ではなく、参事会が管理する教会である。

後にマドリッドのサント・ドミンゴ・エル・レアル修道院長となるコンスタンサは、父である親王フアンと祖父ドン・ペドロ1世の墓を自分の修道院に移すよう、従姉妹(カタリナ・デ・ランカスター)の子であるホアン2世に願い出てこれを許された。現在フアンの遺骨はドン・ペドロとともにセビリア大聖堂にある。
彼女こそ、現在マドリッドの国立考古学博物館に収蔵されているドン・ペドロの祈祷像を作らせた「孫のコンスタンサ」であり、ドン・ペドロの背後には寝像となった彼女が静かに眠っている。

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