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ホアナ・デ・カストロ

ロドリゲス・デ・カストロの妹、ホアナ・デ・カストロ
ディエゴ・デ・アロと死別した後、1354年にドン・ペドロと結婚、カスティリア王妃となる。
アヤラによれば、ドン・ペドロはアビラとサラマンカの司教を買収、ブランシュ・ド・ブルボンとの結婚無効を認めさせてまでホアナ・デ・カストロと結婚。しかし結婚式の翌日にはホアナを捨てたとされている。

でも。
ドン・ペドロは数人の愛妾との関係を清算させたとき(当時王妃として遇されたイサベル・デ・サンドバルの横槍か?)それぞれにきちんと手切れ金を渡すほどの気遣いを見せている。なのにブランシュ・ド・ブルボンやホアナ・デ・カストロといった、反ペドロ派にとって格好の広告塔になり得る高貴な女性に対してのみ、冷酷な仕打ちを行ったと強調されているのは、エンリケの策略なのか?
ハエンの司教の記録によれば、ドン・ペドロはホアナと挙式を行った後、数日間クエリャルで共に過ごしたらしく、アヤラの記述のように一夜でポイ捨てしたわけではないらしい。王の二重結婚を糾弾してエンリケら庶子軍が蜂起し、この知らせを受けたドン・ペドロは否応なくクエリャルを発たなくてはならなかったのだ。
そんな中でホアナ・デ・カストロのもとに教皇からの破門が言い渡される。ガリシア出身のホアナは、王妃としての地位や権力のためではなく、キリスト教徒的立場から正式な結婚を望んだのではないかと思う。正しいキリスト教徒として結婚を要求したはずが思いがけず破門の身となり、そのためドン・ペドロとの関係を絶ったのでは?と妄想したり。

また、ドン・ペドロとブランシュ・ド・ブルボンとの結婚無効を宣言した司教は人望も厚く、博識で敬虔な人物であり、後々までこの宣言を撤回することはなかったという。彼らにとって無効と認められる正当な理由があったのだろうか。フランス王の契約不履行のような政治的要因まで考慮するのかは不明だが。

ホアナ・デ・カストロはドン・ペドロに贈与されたドゥエニャス(カスティーリャ・イ・レオン州パレンシア県都パレンシアから17キロほど南に位置する)に住み、翌年息子のホアンを産んだ。その後の暮らしぶりについては不明。
1374年にガリシアで亡くなったとされ、現在はサンティアゴ・デ・コンポステラのカテドラルに眠っている。
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私も妄想。。。
結婚無効が言い渡される時の最もポピュラーな理由としては「婚姻が完全に行われなかった」というのがありますね。つまり処女妻のままだったという。
エンリケ・エル・インポテンテが最初の妻と離婚した時の口実がこれです。
ブランシュは……アルカサルではあの悪夢の床入式やってましたが(汗)、事実はどうあれ王様が「やってない!」と主張した可能性はあるかも。
結婚後もほとんど一緒に過ごしてないみたいですし。
他には「近親間の結婚」というのも結婚無効の理由にはなりますが、ドン・ペドロとブランシュにはあてはまらないですね…

Mlle Cさまへ
結婚無効の理由…一番わかりやすいのはやはりその線ですかね~
王様が「やってない!」と言ってるのにブランシュが「やられた!」なんて言ったらサルダーニャが「私の姫様がそんなはしたないことを~~」と嘆くかも。いや、サルダーニャが有効だと騒ぎ立てたりして…(妄想は続く
>エンリケ・エル・インポテンテが最初の妻と離婚した時の口実がこれです
都合のいい言い訳だろ~と思えないあたりが悲しすぎ(涙
La petrista del siglo XXI

くみぞう

Author:くみぞう

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