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【3】ブランシュ・ド・ブルボン

1355年から1359年の間、ブランシュはシグエンサに幽閉されたが、この間にもカスティリアとアラゴンの戦いは激しさを増していった。ブランシュがアラゴンの手に落ち、再び反ペドロ派の旗印となることを避けるためドン・ペドロは彼女をヘレス・デ・ラ・フロンテラに移した。

ヘレス・デ・ラ・フロンテラとプエルト・デ・サンタマリアの間、エル・ポルタル方面への街道のあたりにもう1つのドニャ・ブランカの塔が存在するが、現在ではカスティリア王妃の獄としてよりも、周囲に残るフェニキアの遺跡により知られている。

1361年ブランシュは、レオノーラ・デ・グスマンの死後王領とされていたメディナ・シドニアに移される。
メディナ・シドニアは、はるか遠く沿岸部や周囲の山々、平原や海峡を望む強固な要塞の町で、城は周囲数キロを見下ろす切り立った山の上に位置していた。ドン・ペドロは自らが権威を保っているアンダルシアへ、戦闘地帯である国境からできるだけブランシュを遠ざける必要があった。

彼女はメディナ・シドニアでわずかな時を過ごし、この町で亡くなった。
亡くなる少し前、ヘレス・デ・ラ・フロンテラのサンフランシスコ修道院に自身の埋葬の場を求めていたことから、おそらく自然死であっただろう。カスティリアに到着して以来、絶えず移送されていたこと、フランスの家族からあまりに遠く離れていたことは、埋葬の地を決定することを困難にしただろう。彼女の命に終わりが近づいているように思われた頃、彼女はサンフランシスコ修道院への埋葬が可能であることを知り、都合よく申込みをすることができた。

フランス王ジャン2世もブランシュの父も、彼女のことを思い出すことはなかった。兄姉たちは彼女の仇討ちを望んだが、それはカスティリアの内戦から百年戦争へと舞台を移した戦いにおいてのこと、彼女の死から5年も経過して後のことである。
不幸な王妃を絶えず支援し、彼女のために助力を求め続けたのは教皇だけだった。


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