スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

フアン・マヌエルと娘コンスタンサ

お前は父親のアルフォンソ王と同じ運命をたどるとしか思えませんもの
愛妾を重んじ王妃を幽閉し
内戦で捕虜になったところまで本当にそっくり


…と、アルカサル2巻でマリア母太后がドン・ペドロを挑発していた。
幽閉された王妃といえば、マリア母太后とブランシュ・ド・ブルボン。
が、不幸な人生を送ったもう1人の女性がいたのである。
聖王フェルナンド3世の末子、マヌエル親王を父にもつフアン・マヌエルとアラゴンのハイメ2世王女コンスタンサの間に生まれたコンスタンサ・マヌエルがその人。
カスティリアとポルトガル両国の王妃の肩書きを持った女性である。

1325年、アルフォンソ11世は14歳で成人に達すると、主要な4人の王族で構成されていた後見人制度を廃し自ら執政を行うことを宣する。後見人の1人フアン・マヌエルは政治家としても騎士としても周囲の評判は高く、その能力を自負していたものの王冠にはほど遠く、後見人としての地位も失った。彼は娘のコンスタンサを王妃にすることで王権への干渉を目論む。
アルフォンソ11世とコンスタンサの結婚は、その年の内にバリャドリドのコルテスで承認される。コンスタンサが未成年(このとき7歳)であることから床入りによる完遂には至らなかったが、コンスタンサは王妃の称号を得た。

ところが翌年、アルフォンソ11世とポルトガルのアフォンソ4世王女マリアとの縁談が持ち上がる。アルフォンソ11世はこの縁談に関心を示し1328年に結婚。これに先立ち1327年にコンスタンサを離縁してトロに幽閉した。
この侮辱に対しフアン・マヌエルはアルフォンソ11世に宣戦布告。妻コンスタンサの生国アラゴンの支援も考慮していたと思われるが、ムルシア総督である彼はグラナダ王に支援を要請し、その見返りとしてモーロの対キリスト教国戦への支援を約す内容の文書を送った。途中この文書はアルフォンソ11世の手に渡ったため未遂に終わったが、企てを知ったアルフォンソ11世としても厳しい対応はできない。
1326年アルフォンソ11世は、自身の後見人の1人であるフアン・デ・アロをトロで殺害させていた。<隻眼>の渾名を持つこのビスカヤ領主はフアン・マヌエルと大変親しかっただけでなく、兄サンチョ4世に対してしばしば反乱を企てた弟フアン親王を父に持つ人物だった。
フアン・マヌエルに対する報復は、敵対者たちの一斉蜂起の呼び水となるかもしれず、また、イベリア半島に再びモーロを招き入れる危険性を孕んでいたため積極的に教皇の仲裁が行われ、1329年には表面上の和解が成立した。
この間、おそらくコンスタンサはトロに幽閉されたまま。

娘を押し売りした責任を感じていたのかどうか、ポルトガル王アフォンソ4世は王太子ペードロ(後のポルトガル王ペードロ1世)の妃としてコンスタンサを迎えることに決め、1339年8月24日リスボンで結婚式が行われた。
翌年に長男ルイス(生後8日で亡くなる)1342年にマリア(後にアラゴン親王フェルナンドと結婚)が誕生。
1345年、後にポルトガル王フェルナンド1世となる末子を産んだ数日後の11月13日、コンスタンサは亡くなった。カスティリアからの輿入れにお供したイネス・デ・カストロとペードロは恋に落ち(怒)王妃の存命中から関係を続けていたが、王妃が亡くなると密かに結婚した(と言い張った)。

フアン・マヌエルの名は文学史上で見かけることが多い。
伯父アルフォンソ10世の膨大な蔵書と学者に囲まれて育ち、自ら多くの作品を執筆した。
私が読んだのは「ルカノール伯爵」という説話・格言集で、1326年以降に執筆が始まり1335年に完成された。「ルカノール伯爵」には、実在の人物の名前が出てきたり、格言の数々も彼の不遇の人生から導き出された真実の声なのだろうと思われて二度おいしい(笑
この本の紹介はまた後日。

1348年フアン・マヌエルは亡くなり、自ら建立したペニャフィエルの僧院に埋葬された。かつて断たれた「娘をカスティリア王妃に」という望みは、フアン・マヌエルの死後、コンスタンサの異母妹ホアナ・デ・ビレナ(ホアナ・マヌエル・デ・ビリェナ)によって成就されることになる。
ホアナ・デ・ビレナの夫エンリケ2世の母レオノーラ・デ・グスマンは、ドミンゴ(ドミニコ)修道会創立者サント・ドミンゴ・デ・グスマンと祖を同じくする家系の出身。

フアン・マヌエルが心の支えとし厚い信仰を寄せ続けたのは、この聖ドミンゴ修道会だった。
関連記事

コメントの投稿

非公開コメント

コンスタンサ・マヌエル…かわいそう(涙)
一度手相を見てもらったほうがいいんじゃないかと思うくらいの結婚運のなさですね。
たぶん結婚線ない。
ポルトガルのペドロ一世。
イネス・デ・カストロを復権させ、暗殺者を処刑し、果てはイネスの死体を掘り返してその手に接吻することを騎士達に強要した…と言われてますけど、最後の「死体掘り返し事件」は嘘(というかただの伝説)じゃないかな~と思ってます。
史料から浮かび上がってくる彼の人物像から想像するに、そういうことしそうなタイプに思えないんですよね。
イネスを愛しつつもちゃんとコンスタンサ・マヌエルとの間にお世継ぎをつくってその子に王位を継がせているし(このへんドン・ペドロとは大違い)、
イネスの暗殺者への復讐も、父王が死ぬまで我慢した鉄の自制心の持ち主。
百年戦争にもトラスタマラ内戦にも巻き込まれることなくポルトガルの繁栄の礎を築いたあたり、かなり老獪で機を見るに敏な君主だったのではないかとにらんでます。

Mlle Cさまへ
>たぶん結婚線ない
この結婚運の悪さは「王がそこにいるようだ」と言われたブス姫ホアナに通じるものが…
コンスタンサ・マヌエルとペドロ4世っていとこ同士なんですよね…ボソリ
それでもポルトガルでの生活は幸せだったかもしれません。王は夫としての義務を果たしてますし、イネスの子はコンスタンサの死後に生まれてますもんね。エライよペドロ。
ポルトガルとガリシアはもともと近い関係で、ロドリゲス殿の父上も幼少の頃にアフォンソ王と一緒に育てられてましたしペドロ自身もカストロ家に親近感を持っていたのかもー?
ふと思ったのですが、イネスが殺害される前年の1354年にはホアナ・デ・カストロがドン・ペドロと結婚、翌年生まれることになる男子を身ごもっていますから、ガリシアの勢力拡大を恐れるポルトガル貴族の危機感は頂点に達していたのかもしれませんねぇ…
アラゴン王もポルトガル王も策略や復讐の糸は張り巡らせてもやみくもにそれを引くことはないのに比べてうちの王様はイケイケドンドン…(涙
即位後の病気で高熱が続いたことがドン・ペドロの精神異常の原因とも言われてます。
私がキャロルなら冷えピタと解熱剤を持って駆けつけるのですが←グァダルキビルの娘

レオノールさんは聖ドミニコと同じ家系でしたか。くみぞう様の探求力には全く脱帽します。
デ・グスマンと云えばロペス殿の初登場のエピに使われたグスマン・エル・ブエノを思い出しますが、この家系もご一族になりますか?

ねこだましいさまへ
探求力…あればいいんですけどねー(笑
グスマン・エル・ブエノも同じグスマン家ですが、レオノールが彼の直接の子孫かというと違います。この辺もうちょっときちんと調べなくてはと思ってるのですが、あんまり遠くへ行っちゃいけないよとちっちゃなくみぞうが耳の中で囁くのです…
グスマン家の発祥はレオンだと言われていますが、実はアフリカから渡ってきたイスラム教徒だったそうです。高貴なグスマン家の始祖がモーロだったことを恥じた子孫が勝手に改竄したとか。
グスマン・エル・ブエノは幼い頃から武芸に秀でていたのですが兄弟に嫉まれたため、名をあげるまではカスティーリャに戻らないと宣言してアフリカに渡りモーロ王に仕えていました。
アフリカでの名声がカスティーリャ王に伝わり、請われて駆けつけた戦で「グスマン・エル・ブエノ」の武勇伝が生まれたそうですよー。

時代はずっと下りますが、ナポレオン三世の皇后ウージェニーがグスマン一族の出身です。
メリメはウージェニーの母親の愛人で、一連のスペインものを書く上で、この母娘との交流から多大なインスピレーションを受けたみたいです。
自分が書いてる史伝の登場人物の末裔が目の前にいるってのはどんな気分なんでしょうね~

Mlle Cさまへ
ウージェニーもグスマン家の出でしたか~。もしかしたらメリメはレオノールにウージェニー母娘の姿を投影していたかもしれませんね。マリア母太后に比べてレオノールが魅力的に書かれているのは、アヤラの史伝を寄り処としていること以外にこの母娘の存在も無関係とはいえないのでは…
アヤラもメリメも関係者を前にしてはさぞかし苦労が多かったでしょう(笑)
特にアヤラの場合「ドン・ペドロ1世の年代記」はエンリケの正義を強調するために書かれたはずなのに、ドン・ペドロや愛妾マリアの美点についてきっちり記してるんですよね。職人の誇りを感じます。じーん。

グスマン・エル・ブエノの逸話、面白いですね。ありがとうございます。
>実はアフリカから渡ってきたイスラム教徒
やはりそうでしたか。以前第7代メディナ・シドニア侯について調べていたらグスマン家の出自について「その可能性を示唆している」と遠~まわしな表現があったのでどうなんかなぁと思ってました。
話しは逸れますが小説ドン・キホーテは急遽アルマダを率いることとなったシドニア侯へのオマージュではないかと云う説があるそうですね。
原文で読んだらイロイロ面白いんだろうなぁ。絶っ対ムリ!ですが。

ねこだましいさまへ
現在のメディナ・シドニア女公爵は、グスマン家の始祖がアフリカからやってきたことを積極的に認めているようです。出自を偽るなんて恥ずかしいこと、むしろキリスト教国の大貴族にまでのぼりつめたことを誇りに思うとする談話を見かけたことがあります。
ハプスブルクの王様にはとんと疎い私、当然アルマダについても勉強不足なんです~
私的にツボなのは、架空の姫君ドゥルシネアのモデルの名前が「アルドンサ」
野暮ったい名前なのでドゥルシネアに変更されたという(笑
ぜひ原書で読んでみてください!私のスペイン語の先生いわく「簡単よ!」とのことでしたよ~
Don Quijoteの当時の綴り字 Don Quixoteは「ドン・キショーテ」と読んだようです。フランシスコ・シャビエルと同じですね~
La petrista del siglo XXI

くみぞう

Author:くみぞう

検索フォーム
最新記事
最新コメント
カテゴリ
タグ

キャサリン・スウィンフォード コンスタンシア 外伝 公爵夫人の記 モンティエル 完結 セビリア カルモナ マルティン・ロペス チョーサー ジョン・オブ・ゴーント イサベル エドムンド バイヨンヌ ファドリケ パラドール アルマグロ シウダ・レアル サンティアゴ・デ・コンポステラ ロドリゲス 考古学博物館 ファルコ 礼拝像 ペードロ イネス・デ・カストロ カタリナ ホアナ・デ・ビレナ ダルブルケルケ カンタベリ物語 イネストロサ ジョアン デュ・ゲクラン JohnofGaunt ジョーン ホアナ・デ・カストロ ブランシュ・ド・ブルボン ブランカ・デ・ナバーラ メリメ カブレラ レオノール・ロペス 

CustomRssReader
リンク
月別アーカイブ
最新トラックバック
QRコード
QR
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。