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【2】カスティリア王とデ・ラ・セルダ親王家

1284年、サンチョ4世は多くの町や貴族の賛同を得て即位したが、アルフォンソ10世の遺言を尊重するデ・ラ・セルダ親王家支持派も少なくなく、その治世中は内乱が絶えなかった。
サンチョ4世の弟フアン親王はビスカヤ領主ロペ・ディアス・デ・アロと組んで反乱を起こすが、デ・アロは処刑、フアン親王は投獄された。
サンチョ4世は数千のデ・ラ・セルダ親王派支持者たちを次々と処刑した後にフアン親王を釈放するが、親王はモーロ王の支援を得て再び蜂起しタリファの町を攻囲する。この町を守っていたアロンソ・ペレス・デ・グスマンは捕らえられた息子と引きかえに城の明渡しを要求されたが、逆に息子の首を切るための剣を投げつけたという。グスマン・エル・ブエノこそカスティリア騎士の鏡!と伝えられているが、この直前まで彼はモーロ王の傭兵だった。

1295年サンチョ4世が亡くなり、息子のフェルナンド4世が王位を継承する。
母マリア・デ・モリナ、マヌエル親王(アルフォンソ10世の弟)の子フアン・マヌエル他、計4人が9歳の幼い王の摂政となった。マリア・デ・モリナはフェルナンド3世の弟アルフォンソ・デ・モリナの娘であり、夫であるサンチョ4世の父アルフォンソ10世といとこにあたる。
サンチョは1270年12歳の誕生日の少し前にベアルンのガストン7世の娘と婚約していた。床入りによる結婚の完遂には至っていなかったが、教会法では唯一これがサンチョの結婚だとされていたため、1282年にマリア・デ・モリナと結婚するとローマ教皇は激怒。
最初の結婚の解消がされていないこと、マリア・デ・モリナとの近親婚の特免を申し立てなかったことが理由であった。教皇の破門は数年に及びフェルナンド4世の王位の正統性を危うくさせた。
デ・ラ・セルダ親王家、サンチョ4世の弟親王フアンが再び王位主張の声をあげ始めたが、マリア・デ・モリナの巧みな政策と厚い人望により反乱貴族たちは懐柔されていく。成人したフェルナンド4世は、母の尽力により平和を取り戻しつつある王国を引き継ぐことができた。
が、このフェルナンドはとんだ親不孝者だ。
母が平和維持のために使う資金の支払いを息子は拒んだ。マリア・デ・モリナはそれを全て私有財産から支払った。あげくにフェルナンドは父王が母に遺した宝飾品をそっくり差し出させた。

こんな親不孝の罰があたってか?フェルナンドは27歳の若さで亡くなる。
王は、アルフォンソ、ペドロ・デ・カルバハルの兄弟を嫌っていた。この2人を始末させようと寵臣のフアン・アルフォンソ・デ・ベナビデスを差し向けるが、逆にカルバハル兄弟に殺害されてしまう。2人はメディナ・デル・カンポの市で馬具を買っているところを捕らえられてハエンに近いマルトス城(ロペスも送られた…)に監禁され、数日後に崖から突き落とされて殺害された。その直前まで2人は口論の末の正当防衛で自分たちは無実だと訴え続け、フェルナンド王に対して「30日以内に神の前に引き出してやる」と通告した。
その後、30日を待たずに王はベッドで亡くなっているところを発見された。
彼のあだ名は「el Emplazado」
日本語でなんと訳したらいいのか悩むが、「召還された」「呼び出された」王様と呼ばれている。
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