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【4】ブランシュ・ド・ブルボン

ブランシュ・ド・ブルボンやホアナ・デ・カストロに対するドン・ペドロの冷たい仕打ちも、よく考えると歴史の勝者によって歪曲されて伝えられた話かもしれない。
そう思って彼女たちについて書かれた本を探してみたものの、伝説を書き連ねただけのようなものがほとんどで、最近の研究などに基づいて書かれた本に至っては、何年も経っているわけじゃないのに絶版だったり、入手不可だったり。
スペインの出版事情ってどうなっているんだろう。



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【3】ブランシュ・ド・ブルボン

1355年から1359年の間、ブランシュはシグエンサに幽閉されたが、この間にもカスティリアとアラゴンの戦いは激しさを増していった。ブランシュがアラゴンの手に落ち、再び反ペドロ派の旗印となることを避けるためドン・ペドロは彼女をヘレス・デ・ラ・フロンテラに移した。

ヘレス・デ・ラ・フロンテラとプエルト・デ・サンタマリアの間、エル・ポルタル方面への街道のあたりにもう1つのドニャ・ブランカの塔が存在するが、現在ではカスティリア王妃の獄としてよりも、周囲に残るフェニキアの遺跡により知られている。

1361年ブランシュは、レオノーラ・デ・グスマンの死後王領とされていたメディナ・シドニアに移される。
メディナ・シドニアは、はるか遠く沿岸部や周囲の山々、平原や海峡を望む強固な要塞の町で、城は周囲数キロを見下ろす切り立った山の上に位置していた。ドン・ペドロは自らが権威を保っているアンダルシアへ、戦闘地帯である国境からできるだけブランシュを遠ざける必要があった。

彼女はメディナ・シドニアでわずかな時を過ごし、この町で亡くなった。
亡くなる少し前、ヘレス・デ・ラ・フロンテラのサンフランシスコ修道院に自身の埋葬の場を求めていたことから、おそらく自然死であっただろう。カスティリアに到着して以来、絶えず移送されていたこと、フランスの家族からあまりに遠く離れていたことは、埋葬の地を決定することを困難にしただろう。彼女の命に終わりが近づいているように思われた頃、彼女はサンフランシスコ修道院への埋葬が可能であることを知り、都合よく申込みをすることができた。

フランス王ジャン2世もブランシュの父も、彼女のことを思い出すことはなかった。兄姉たちは彼女の仇討ちを望んだが、それはカスティリアの内戦から百年戦争へと舞台を移した戦いにおいてのこと、彼女の死から5年も経過して後のことである。
不幸な王妃を絶えず支援し、彼女のために助力を求め続けたのは教皇だけだった。


【2】ブランシュ・ド・ブルボン

1352年、フランスとカスティリアが交渉を行っている頃には、ドン・ペドロはすでにマリア・デ・パデリヤと出会っていた。
ブランシュがバリャドリドに到着してから結婚式が行われるまで4ヶ月が過ぎていたが、この間も持参金の支払いについては解決できないままだった。フランス王は最初のクリスマスの支払いを拒否していて、引き渡しているのはブランシュの出国時に支払う25,000フロリンのみ。
ドン・ペドロもまた協定に追認を与えず、マリアと生まれたばかりのベアトリスとともに過ごしていた。それでも結局、ダルブルケルケと王太后の圧力により1353年6月3日結婚式は挙行されたが、その2日後、といっても正確な資料はなく、アヤラもその理由を詳しく述べてはいないが、ドン・ペドロはブランシュのもとを去った。
ドン・ペドロが彼女を捨てたのは、ブランシュがバリャドリドへの旅の途中で王の異母兄ファドリケと恋仲になったからだという噂が流れ、また、マリア・デ・パデリヤへの愛も引き合いに出されたが十分な説明にはならない。
それは、ブランシュの唯一の相談役を任された教皇インノケンティウス6世とドン・ペドロが交わしていた書状の中に見ることができる。教皇は王妃のもとに戻るよう王に勧告したが、ドン・ペドロは「ブランシュは王が不貞を働いていると感じていてそのため結婚を継続することはできないと告白した」と申し立てた。教皇はこれらの手紙に述べられた理由を浅薄なことと思い、王妃の告白とは、よく考えもせず無理やりに引き出されたものであろうと考えた。
ドン・ペドロはフランス王との協定のほか、彼を服従させていた親族や側近たち、バリャドリドに滞在するフランスの使節団の強い圧力により結婚させられた。しかし2人だけになったとき、おそらくブランシュはすでに王妃であることで少しもためらうことなく、フランス王が持参金の支払いに充分足りる資金を調えていなかったこと、彼女の出発の遅延とバリャドリドまで多くの町に寄り続けたことはそれが原因だったのだ、と王に打ち明けたのだろう。
ドン・ペドロが契約に定められた町とその収入について一度もブランシュに授与しなかったこと、フランス王の負担で準備された嫁入り道具など、彼女の財産についてジャン2世が一度も返還を要求しなかったことがこの裏付けとなるだろう。奇妙なことにジャン2世はブランシュの放置に対して一度も公然と抗議をせず、彼女のためにとりなすこともしなかった。
王妃のために争いを続けていたのは、教皇インノケンティウス6世ただ1人だった。しかしその試みは無駄に終わり、ドン・ペドロとホアナ・デ・カストロの結婚による王国の破門も、王のふるまいに影響を及ぼすことはなかった。
教会の分裂により教皇のイメージは悪化しはじめ、2人の教皇の存在によりその権力は徐々に変化していた。アビニョン教皇は信仰や道徳よりも社会的、経済的権力を持ち、戦においてフランス貴族やエンリケ、テリョ、そしてアラゴン王国と手を結んだ。ドン・ペドロはイネストロサ、パデリヤ一族、何より領主制に危惧して権利を主張し始めていた中産階級の勢力を最大の拠りどころとした。

王の拒絶の後、ブランシュはある時期を王太后とともにメディナ・デル・カンポで過ごした。しかし、カスティリアで貴族の反乱が起きたとき、王命によってアレバロへ移され、後にトレドへ幽閉された。この間も王妃と教皇の書簡は交わされつづけ、ブランシュの手紙にはドン・ペドロが彼女に非常な窮乏を強いていることがほのめかされている。これはまったくの偽りで、トレドの住民にブランシュとブランシュ派を支持させ、反乱を起こさせるよう仕向ける道具として使われた。これによりトレドの住民の支持を得ることができたブランシュは、幽閉されていたアルカサルを捨ててカテドラルへ逃げ込んだ。そこから夫の威信を失墜させるためはたらきかけ、用意できる全ての金を彼女のために活動している派閥へと送っている。信奉者は増大し、王国での地位に自信をつけた彼女はアルカサルへと戻った。ドン・ペドロはトロで囚われの身となり、貴族らに押し付けられた降伏文書に署名しなくてはならなかった。
後にドン・ペドロはおばのエレーナ(レオノール・デ・カスティリア・イ・ポルトガル)とその息子であるアラゴン親王の助けを得て脱出を果すが、彼らの協力を得るには多くの領地を約束しなくてはならなかった。ドン・ペドロの復讐心は、多くのブランシュ派信奉者への迫害、殺害とともにぶり返し、彼らの多くはフランスやアラゴンに亡命した。

【1】ブランシュ・ド・ブルボン

その昔、ヘレス・デ・ラ・フロンテラとメディナ・シドニアとの間で、どちらがブランシュ・ド・ブルボンの最期の地となったのか、彼女の真の死因はなんだったのかについて論争が起こったそうだ。
それについてまとめられたサイトがあったので最小限引用のうえ(と言っても結構長くなりそうな)紹介したいと思う。
ブランシュ・ド・ブルボンは現在ヘレスに眠っているので当然ヘレスに幽閉されてそこで亡くなったと私は思いこんでいた。




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La petrista del siglo XXI

くみぞう

Author:くみぞう

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