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サンチョとディエゴとその子孫

ドン・ペドロとイサベル・デ・サンドバルの間に生まれたサンチョとディエゴ。
エンリケによってカルモナに投獄され、後にサンチョはトロへ、ディエゴはクリエルに移される。
サンチョは獄中で亡くなり、子孫はない。
ディエゴは1434年にホアン2世の側近のとりなしによって自由の身となり名誉を回復する。
ディエゴには6人の子がいたがおそらく虜囚生活の間にもうけたのではと思われる(自由の身になった時点ですでに70歳近くになっているはずなので)。
青年期までは狭い檻に閉じ込められ満足に歩けなかったというが、エンリケ没後にはおそらく城内かまたはもっと狭いエリア内での自由は与えられていたのかもしれない。ディエゴはグアダラハラ家の始祖となる。

ディエゴの長男の名はペドロ。その息子の名もペドロであることから、父はエル・ビエホ(年寄り)、息子はエル・モソ(若者)と呼ばれた。エル・エルモソ(美男)ではない(笑
末娘は後にトレドのサント・ドミンゴ・エル・レアル修道院長となるカタリナ。
ホアン2世、エンリケ4世、イサベル女王とその家族らはカタリナを「おば上」と呼んで頻繁に手紙を交わし、また経済的援助も行って彼女を庇護した。
当初、カタリナは手紙に「ドン・ペドロ王の孫 カタリナ」と署名していたが、後には「カタリナ・デ・カスティリア」と記すようになったという。

カスティリア姓は、ドン・ペドロの庶子ホアン(カスティリア・イ・カストロ)、ディエゴ(カスティリア・イ・サンドバル)と、ドン・ペドロの異父弟テリョの庶子から発生したと言われているようだ。テリョには10人の庶子がいたがホアナ・デ・ララとの間に子供はなく、彼女が亡くなった後は妻を迎えなかったため、嫡出子はいない。
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イサベル・デ・サンドバル

イサベル・デ・サンドバル(1340-1371?)
ドン・ペドロの嫡子アルフォンソ(1359-1362)の乳母。
後にドン・ペドロの愛妾となったイサベルは、1362~3年頃にサンチョ、1365年頃にディエゴと2人の男子を産んだ。

マリア・デ・パデリヤが亡くなったのは1361年。アルフォンソが亡くなったのは1362年。
王様ったらマリアとアルフォンソ坊やを亡くした寂しさでついついお手付きしてしまったのね、と思いたい。大きなお腹を抱えた愛妾の存在は、王様を愛する1人の女性としてのマリアを悲しませるだではないか。
自分の死後、王が愛妾を王妃に迎えたら?
生まれた子供が王国の継承者とされたら?
生前のマリアにとっては、結婚も、王妃としての地位もまるで不確かなものだった。
残される子供たちの将来を案じながら死んでいかなくちゃいけないなんて辛すぎる。

というわけで以下くみぞう的脳内時系列。

マリア・デ・パデリヤ没

イサベル乳母になる

アルフォンソ没

イサベル愛妾になる

サンチョ誕生

こんな感じでお願いします、王様。

王は慣習に従って、彼自身の救霊のために慈善基金を命じ、ことに彼を栄あらしめたことは、モール人のもとにおけるキリスト教徒の捕虜の釈放であった。宗教上のある感情によって命じられたこのこのような処置の後すぐにまた別の、おそらくはたいへん違った動機による処置が見られた。
それは指名された4人の婦人が尼僧になる条件のもとに、最初の人は2千カスティーリャドゥーブルを、残りの3人は千ドゥーブルだけもらったことだった。この最後の条項は、死なずに生き残った1人の横暴な嫉妬心がそうさせたのであって、それが一般に知られていない情婦たちを意味するかどうかは疑うまでもあるまい。

ドン・ペドロ1世伝/メリメ全集4-史伝1-河出書房新社

「生き残った1人」とは、イサベル・デ・サンドバルを指しているのだろうか。
イサベルは王に男子を与え、他の愛妾たちを排斥してその寵愛を一身に集めた。
この後のドン・ペドロの運命を思えば、ほんの一時王妃としてもてはやされるよりも、数多の愛妾の1人であった方が幸せだったかもしれないのだけれど。

モンティエルでドン・ペドロが謀殺され、イサベルはマルティン・ロペスらとともにカルモナに篭城、長期にわたって抗戦を続けるが、やがて新王エンリケ2世の前に投降した。
イサベル・デ・サンドバルはセビリアに送られ、罪人として市中を引き回された。その後の彼女についての情報は得られていないが、おそらく悲しい結末を迎えたのだろう。

テレサ・デ・アヤラと娘マリア

テレサ・デ・アヤラ(1353-1424)ドン・ペドロの愛妾の1人
マリア・デ・アヤラ(1367-1424)ドン・ペドロとテレサの娘

ちょ、待てよ。1353年生まれだと?
おとーさま、テレサとベアトリスは同い年なんですけど(汗

母娘ともにトレドのサント・ドミンゴ・エル・レアル修道院長となった。
テレサはごく幼いマリアを連れて修道院に入ったようだが、ドン・ペドロの死の前後に庇護を求めて身を寄せたのか、もしくは新王の意向によるものか、経緯は不明。

カタリナ・デ・ランカスター(1372-1418)が、カスティリアへ輿入れしたのは1393年。
この後、王妃とこの母娘はそう時をおかずに対面していたようだ。
マリアとカタリナ王妃は叔母と姪、王妃とホアナ・デ・カストロの孫コンスタンサ(?-1478)は従姉妹同士であるが、彼女たちは単なる親族以上の親しい関係を続けた。

テレサとマリアは同じ年に亡くなり、ともにトレドに埋葬された。
ここにはドン・ペドロがイサベル・デ・サンドバルとの間にもうけた庶子、サンチョとディエゴ兄弟も埋葬されている。
トロで獄死したサンチョの亡骸は、テレサが1409年にトレドに移して埋葬を行った。
ディエゴの亡骸は、1448年に娘のカタリナ・デ・カスティリア(同修道院長)が移させたものである。

マリア・デ・イネストロサ

1340年?-没年不詳
イネストロサ(フアン・フェルナンデス・デ・イネストロサ)の娘。
マリア・デ・パデリヤの母と、マリア・デ・イネストロサの父は兄妹(姉弟)なので2人は従姉妹にあたる。

マリア・デ・イネストロサの夫ガルシ・ラソ・カリリョはマルティン・ロペスの妻サンチャ・カリリョの叔父。マリア・デ・イネストロサを気に入ったドン・ペドロがガルシ・ラソ・カリリョを遠い戦地へ追いやったとも、たまたま留守の間に見初め、王の愛妾になることを名誉と思ったカリリョの親族が仲を取り持ったとも言われる。
ドン・ペドロとマリア・デ・イネストロサの間には1361年にフェルナンドが誕生するが夭逝、没年不詳。
この前後数年の間にマリア・デ・パデリヤ、アルフォンソ王子が相次いでペストで亡くなっていることからイネストロサ母子も共に病没だろうか。

親王フアン・デ・カスティリア・イ・カストロ

ドン・ペドロとホアナ・デ・カストロの子、親王フアン(1355-1405)
2人の結婚の翌年に生まれ、その短い結婚生活とドン・ペドロの遺言書に見られる後継者名の改竄から、真の嫡出子かどうかで議論されている。
本人もその子孫もドン・ペドロの末裔であることに強い自信と誇りを持っていたことは間違いない。

コンスタンシアの名でカスティリア王位を要求していたランカスター公とカスティリアの間に和平調印がなされたとき、和平保証の質として親王フアンが指名された。ドン・ペドロの王女たちに継ぐ王位継承者であったことが大きな要因ではあるけれど、彼を人質にすることを提案したのは義兄弟にあたるランカスター公ジョン・オブ・ゴーントである。ひでぇ。

この時までホアンは母ホアナ・デ・カストロと共に過ごしていたのではないかと思われるが実情は不明。
1386年フアンはソリアの要塞に幽閉されたが、この城砦の守備隊長の娘エルビラ・デ・エリルと結婚する。高貴な囚人に対しては相応の待遇がなされていたために結婚も可能であったようだ。
叔父のアラゴン王ペドロ4世に幽閉されたマジョルカ親王ハイメ・デ・マジョルカ(ハイメ4世。母はペドロ4世の妹)も、檻に閉じ込められるのは夜間だけだった。
フアンの異母弟にあたるドン・ペドロの庶子に対しては、このような配慮はされなかった。エンリケはドン・ペドロを殺害後、幼い庶子らを捕らえ投獄。生き残った者でさえ、釈放された時には満足に歩くこともできないほどだったという。

親王フアンとエルビラの間には2人の子供が生まれた。
1人目は祖父の名をとってペドロと名付けられ、オスマとパレンシアの司教となる。教会に献身する以前、カタリナ・デ・ランカスター付きの英国人女官との間に子供を4人、サラマンカの若い召使いとの間に更に4人の子を持った。子供たちの多くは修道士、修道女となり院長の座に就く者が多い。うち1人は王太子フアン(カトリック両王イサベルとフェルナンドの長子)の養育掛となった。
2人目はコンスタンサ。ドン・ペドロの娘でありカタリナ・デ・ランカスターの母であるコンスタンシアから付けられた。

フアンはその生涯のほとんどをソリアで過ごし、最期の時もこの町で迎えた。エンリケ王(おそらくエンリケ3世)の命令でフアンはソリアの町のコレヒアータ・デ・サン・ペドロに埋葬された。「コレヒアータ」は司教ではなく、参事会が管理する教会である。

後にマドリッドのサント・ドミンゴ・エル・レアル修道院長となるコンスタンサは、父である親王フアンと祖父ドン・ペドロ1世の墓を自分の修道院に移すよう、従姉妹(カタリナ・デ・ランカスター)の子であるホアン2世に願い出てこれを許された。現在フアンの遺骨はドン・ペドロとともにセビリア大聖堂にある。
彼女こそ、現在マドリッドの国立考古学博物館に収蔵されているドン・ペドロの祈祷像を作らせた「孫のコンスタンサ」であり、ドン・ペドロの背後には寝像となった彼女が静かに眠っている。

pedroyconstanza.jpg
La petrista del siglo XXI

くみぞう

Author:くみぞう

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