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ポルトガル王フェルナンド1世とジョアン1世

ぎゃ~~~~~!
私ったら歴史を歪めるとんでもない勘違いをしていたよ!

ポルトガル王アフォンソ4世の記事中に誤りがあった!
ポルトガル王フェルナンドの後継者はイネス・デ・カストロの息子のジョアンではなく、正しくはテレサ・ロレンソの子のジョアンです。訂正しました。スミマセン。
テレサはイネスの侍女だったとも言われており、ジョアンは正真正銘?の庶子。6歳の時に初めて父王ペードロ1世と対面しアヴィス騎士団長に任命された。

1367年 ポルトガル王ペードロ1世が亡くなり、息子のフェルナンド1世が即位。
1369年 カスティリア王ドン・ペドロ1世が殺害される。ポルトガルはこれまで中立を保っていたが、亡命してきたペドロ派の貴族たちの教唆によりフェルナンド1世はカスティリアの王位継承戦争に介入する。アラゴン、グラナダと同盟を結び、ガリシアからカスティリアへの侵攻を企てるが失敗。
逆にカスティリア軍を引き込む結果となり、1371年3月にローマ教皇の仲介により和睦。フェルナンド1世はカスティリア王位継承権を放棄し、エンリケ2世王女アラゴン王ペドロ4世王女レオノールと婚約する。
ところが直後に婚約を破棄し、人妻レオノール・テリェスとの結婚を宣言。民衆の蜂起によりレオノール・テリェスと共に逃亡するが1372年には彼女と結婚した。
王妃となったレオノール・テリェスは国政に干渉し反対勢力を排除。イネス・デ・カストロの子、ジョアンとデニスをカスティリアへ追放、王妃レオノール・テリェスとオウレン伯アンデイロの密通に対し公に反発していたアヴィス騎士団長ジョアンには国王反逆罪を捏造、エヴォラに投獄し死刑を画策する。
身の危険を感じた騎士団長ジョアンはイングランドのエドムンド・オブ・ケンブリッジ(イサベルの夫ヨーク公エドムンド)の助けを得て脱獄した。

フェルナンド1世のカスティリア王位継承権放棄を受け、ランカスター公ジョン・オブ・ゴーントが妻コンスタンシアの権利により王位を要求、ペドロ派の支持を受け自らカスティリア王を名乗る。
フェルナンド1世もこれを支持したが、エンリケ2世の怒りを買ってリスボン焼き討ちにあい、再び教皇の仲介により1373年にカスティリアと和平条約を結んだ。この条項の1つには、ポルトガル王女ベアトリスとカスティリア王太子ホアンの婚約が盛り込まれた。

1379年カスティリアではエンリケ2世が亡くなり、ホアン1世が即位。
1382年に王妃レオノール(アラゴン王ペドロ4世王女)を亡くしたホアン1世は、1383年にポルトガル王女ベアトリスと再婚。同年10月にフェルナンド1世は亡くなり、王妃レオノール・テリェスが摂政となって娘ベアトリスのポルトガル女王即位を宣言。ここから2年間の空位時代が始まる。
カスティリア王国に併合される危機感から、ポルトガル国内ではイネス・デ・カストロの子ジョアンを待望する声が高まった。しかし彼はカスティリアに亡命しており、騎士団長ジョアンがにわかに注目され始める。
12月6日、騎士団長ジョアンは摂政レオノール・テリェスの愛人であるオウレン伯アンデイロを殺害、王位を要求する意図のなかった騎士団長ジョアンはレオノール・テリェスに許しを請いに向かうが認められず、また、レオノール・テリェスと騎士団長ジョアンの結婚による和解も提案されたがレオノール・テリェスは拒否。騎士団長ジョアンにはリスボン市民から選任されていた王国統治者の道しか残されていなかった。一方のレオノール・テリェスも市民を鎮圧できず、サンタレンへと逃れる。

1384年に入るとカスティリア王ホアン1世は王妃ベアトリスを伴いポルトガルへ侵攻を開始。レオノール・テリェスは貴族の反対を押し切り、娘とカスティリア王にポルトガルの統治を委ねる。ホアン1世の専横に貴族たちの離反は止まらず、レオノール・テリェス自身も幽閉状態に置かれる。やがてレオノール・テリェスはホアン1世の暗殺を画策したとしてトルデシーリャスの修道院に幽閉された。

1385年4月、騎士団長ジョアンはコインブラのコルテスで国王に選出されジョアン1世として即位。8月にはフランス、ガスコーニュの傭兵を含むカスティリアの3万1千の軍隊とアルジュバロータで戦を交え、イングランドの長弓兵、槍を持つ農民兵からなる5分の1の兵力のポルトガル軍が勝利した(アルジュバロータの勝利)。

1387年にはカスティリア牽制のためイングランドと同盟(ウィンザー条約)を締結。この保証に、ポルトガル王妃としてジョン・オブ・ゴーントの娘を迎えることになった。ジョンと先妻ブランシュ・オブ・ランカスターの娘フィリパは26歳。
ランカスター公の現在の妻コンスタンシアの娘カタリナは15才と若くカスティリアの王位継承者でもあったが、ジョアン1世はフィリパを王妃として迎えることを決め、1387年2月2日ポルトの大聖堂で結婚した。カタリナを選ばなかったのは、カスティリアの王位継承争いにこれ以上深入りするのを避けるためだったといわれている。

ジョアン1世はカスティリアへの攻撃のためランカスター公の待つガリシアへと向かった。ペストの蔓延や天候不順により戦いが長引いているうち、ランカスター公はポルトガルへの打診もないまま、カスティリアと同盟を結び、娘のカタリナをエンリケ王太子に嫁がせることで自身は王位要求を取り下げ、ホアン1世のカスティリア王位を認めた。
アルジュバロータの敗北を屈辱に感じていたホアン1世は王太子エンリケに王位を譲り、自らはアンダルシアを含むポルトガル王国の王として君臨する野望を持ちポルトガルとの小競り合いを続けるが、1390年落馬により急逝する。

カスティリアはフランス、イングランドと同盟を結び、結局ポルトガルは孤立無援の戦いを続けざるを得なくなった。この戦いを終結に導いたのは、ドン・ペドロの孫娘カタリナ・デ・ランカスター。ホアン1世の死去に伴い即位した夫のエンリケ3世も、息子ホアン2世の摂政となった義弟フェルナンド(アラゴン王フェルナンド1世)もポルトガル王位に執着を見せていた。
カタリナ・デ・ランカスターは彼らを説得し、1411年10月31日カスティリアとポルトガルに和平をもたらした。
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ポルトガル王アフォンソ4世

ポルトガル王アフォンソ4世
1291.2.8-1357.5.28
在位1325-1357

ポルトガル王ディニス1世と王妃イサベルの唯一の嫡男としてリスボンに生まれた。

父王ディニスはアフォンソ王子の異母兄アルフォンソ・サンチェスをより愛したといわれており、1325年1月7日にディニス王の死により即位したアフォンソ4世は、父王が兄に残した領地などを全て没収してカスティリアに追放した。アルフォンソ・サンチェスはカスティリアから様々な企てを試みたが全てが失敗に終わり、王太后イサベルの取り成しにより両者の間に和平が成立した。

1309年、アフォンソ4世はカスティリア王サンチョ4世とマリア・デ・モリナの娘ベアトリスと結婚。
2人の間に生まれたマリアは1328年にカスティリア王アルフォンソ11世と結婚した。
しかしアルフォンソ11世は公然と王妃を軽んじ、この侮辱に憤慨したアフォンソ4世はカスティリアへ戦を挑むことになる。それでもアルフォンソ11世は態度を改めることはなかった。
4年後、アルフォンソ11世はサラドの戦いにポルトガルの援軍が必要であるとして王妃マリアに父王への取り成しを頼み、マリアはこれに応じて父王へ手紙を書き送る。
1339年セビリアで和平の調印が行われ、両国の戦争に終止符が打たれる。
ポルトガルの援軍を受けたアルフォンソ11世は翌年、サラドの戦いで勝利を収めた。

両国に和平が結ばれた年、ポルトガル王太子ペードロはカスティリアのコンスタンサ・マヌエルと結婚。
ところが王太子ペードロはコンスタンサの侍女イネス・デ・カストロに恋してしまう。アフォンソ4世はこの恋が単なる情事であることを願ったが、1349年にコンスタンサが亡くなるとペードロはイネス・デ・カストロ以外の女性との結婚を拒否した。

1350年にはアルフォンソ11世が亡くなり、即位したドン・ペドロ1世とエンリケ・デ・トラスタマラとの争いが起こる。これにより多くのカスティリア貴族はポルトガル宮廷に逃げ込み、派閥を形成。王太子ペードロとの間に子を生していたイネス・デ・カストロの取り巻きとして権力を増大させつつあったが、年老いたアフォンソ4世には混乱する宮廷を統制する力はなかった。
王太子ペードロの嫡子であるフェルナンドは病弱であるのに対し、イネス・デ・カストロの子達は健康に育っていた。カスティリア貴族の勢力は日毎に増大し、孫の将来を案じていたアフォンソ4世は、ポルトガル貴族の願いを受け1355年イネス・デ・カストロの暗殺を命じた。
アフォンソ4世は息子が冷静になることを期待していたが、ペードロは父の行いを決して許そうとしなかった。自ら軍を率いてドゥエロ川とミーニョ川の間を荒らしまわった後、1357年に父子は和解したが、そのわずか後にアフォンソ4世は亡くなった。
アフォンソ4世が案じた孫のフェルナンドは、1367年にフェルナンド1世として即位するが1383年に亡くなり、ポルトガルの王冠はペードロがイネス・デ・カストロテレサ・ロレンソとの間にもうけた庶子ジョアンに渡ってしまった。

エンリケ・デ・トラスタマラ率いる庶子軍が王太子ペードロにカスティリアの王位継承者として名乗りをあげるよう説得したとき、アフォンソ4世は乗り気の王太子に対し、庶子軍の使者にいかなる返事も与えてはならないと戒めた。異母兄弟に王位を脅かされるカスティリアとポルトガルの2人の孫に、かつて異母兄アルフォンソ・サンチェスに苦しめられた自分の姿を見ていたのかもしれない。
アフォンソ4世同様、ドン・ペドロも父王に愛されずに育った。
そしてアルフォンソ・サンチェス同様、父王に愛されたのは庶子であるエンリケ。
そのエンリケに王冠を渡す手助けをするのがダルブルケルケ。
アルフォンソ・サンチェスの息子フアン・アルフォンソ・デ・アルブルケルケである。

La petrista del siglo XXI

くみぞう

Author:くみぞう

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