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【続】ロドリゲス・デ・カストロ-TODA LA LEALTAD DE ESPAÑA-

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ロドリゲス・デ・カストロ-TODA LA LEALTAD DE ESPAÑA-

夫の仕打ちにも毅然としていた公妃様ですが
身も世もなく泣き崩れた時がありました
ロドリゲス・デ・カストロの訃報が届いた時です

彼は父王の最期に立ち会った唯一の生き証人でした
公妃様には特別の想いがあったのでしょう

バイヨンヌへの途上で海に沈んだロドリゲスのために
何日もかけて南西部の港町へ赴き追悼ミサを行いました

暗い空の彼方にスペインの煌く海を見ていたのかもしれません
鉛色の海を前にいつまでも立ち尽くしていたそうです

  ロドリゲスはガリシアの海へ帰ったのね・・・
  私達より先に・・・
  待っていてねロドリゲス・・・・・・
  必ず行くわ
  ガリシアへ・・・・・・!

「アルカサル-王城 外伝-公爵夫人の記」より



イベリア半島凱旋の志半ばにして亡くなった、ガリシアの騎士ロドリゲス・デ・カストロ。
バイヨンヌにあるという彼の墓碑には、
“AQUÍ IACE DON FERRAN RVIZ DE CASTRO TODA LA LEALTAD DE ESPAÑA”と刻まれているという。
彼の忠義に報いるためコンスタンシアが刻ませたのだろうか。

続きはコチラ

tag : コンスタンシア バイヨンヌ

イングランドに渡ったガリシアの騎士

これまで何度かロドリゲス・デ・カストロについて記事にしてきたものの、調査不足な部分があったため現時点で判明した事項についてメモしておくことにする。

ドン・ぺドロ亡き後、ジョン・オブ・ゴーントに嫁いだコンスタンシアは、かつて父の友であった黒太子らに迎えられ、1372年2月カスティリア女王として盛大にロンドン入りした。
ランカスター公爵家には、王の生前から婚姻交渉のためイングランドに渡っていたセゴビア聖堂参事会長他、カスティリアの亡命貴族が集い、さながら王宮の様相を呈しており、彼らの存在は本国カスティリアでも「emperegilados」の名で知られ始めていた。
1372年6月6日頃、コンスタンシアは長女カタリナを出産。1374年には長男ジョンが誕生する(このほかに男子1人が生まれるがどちらも夭逝)。
ロドリゲス・デ・カストロが半島での戦いを断念し、大勢の支持者を率いてポルトガルからイングランドへと渡ったのが1373年。
未来のカスティリア女王を抱き、また1人を身ごもるコンスタンシアに迎えられ、ロドリゲスらペトリスタの士気は高まったに違いない。また、父王の忠臣ロドリゲスの存在はコンスタンシアやイサベルにとっても心強かっただろう。
残念ながらガリシアの騎士ロドリゲス・デ・カストロは王冠の奪還を見届けることなく、1377年(1375年の説もあり)ガスコーニュで亡くなった。対カスティリア戦の準備のために派遣されている時期のことで、おそらく病死だったのではないだろうか。

*emperegilados(エンペレヒラードス)
イングランドで宮廷を形成していたペトリスタに対するトラスタマリスタ側の形容。ドン・ペドロの父はユダヤ人のペロ・ヒルであるとするプロパガンダによる。残念ながら正確な意味は不明。
emperejilarは「(ごてごてと・美々しく)着飾る」の意。
ユダヤ人を連想させる意図であるなら一昔前までのジプシーのイメージだろうか?華やかなドレスを着た旅芸人、流浪の民、のような。

推測:ロドリゲスの降伏

熱でぽーっとしながら色々想像をめぐらしてみる。
ロドリゲス・デ・カストロ率いるガリシアのペトリスタが、決定的な敗北なしに降伏したのはなぜだったのか。

まず、教皇の介入によってポルトガルとカスティリアの休戦協定が結ばれたことが最大の要因か。
マルティン・ロペスも追放で済むということで、グラナダ王と親交のあるロペスの行く先は安心だと判断したのか。
ガリシアに迎える気持ちもあったかもしれない。
また、エンリケは手紙の中で「ロドリゲスの妻子を支配下に置いている」と嬉々として報告している。
この妻とは、多分2番目の結婚相手であるレオノール・エンリケス(エンリケの身内?と思ったが結婚した年も彼女の出自も不明でよくわからず)。彼女との間に子供は生まれなかったので、子供たちとは先妻のカタリナ(ホアナ・アルフォンソ・デ・カスティリア)の子供たちだろうか。
彼女が残した子供たちと、新たに迎えた妻をまたしても無理やり奪われたロドリゲス。
かつて愛するカタリナを奪われたトラウマもあってかなりの痛手だったに違いない。
そんなことを考えると私まで湿潤な女になってしまう。ロドリゲスは愛する女を見捨てるような冷酷な男ではないはずだ。

妄想をめぐらしていると拉致されたロド妻の姿が、大暴れで抵抗するアラベラに思えてきた。拉致役の兵士もタダではすまなかったに違いない…
このあたりに関する資料がなかなか見つからないので推測(妄想?)するしかないのが難点。
どこかに良い資料はないものか。

ロドリゲス・デ・カストロ

フェルナンド・ロドリゲス・デ・カストロ(1320-+1375)
父:ペドロ・フェルナンデス・デ・カストロ(サンチョ4世の孫)
母:イサベル・ポンセ・デ・レオン
妹:ホアナ・デ・カストロ(ドン・ペドロの一夜妻)

1355年、カタリナと結婚。
…のはずが無効。
エンリケいわく「ロドリゲスの母と私たちの母はいとこ同士。禁止された血縁関係の結婚なので許可は下りなかったのだ」
名前から推測するに、エンリケの母方の祖母とロドリゲスの母方の祖父が兄弟姉妹かと思われる。

【エンリケ・カタリナの母】
           レオノーラ・ヌニェス・デ・グスマン
                     ↑
父:ペドロ・ヌニェス・デ・グスマン    母:フアナ・ポンセ・デ・レオン

【ロドリゲスの母】
           イサベル・ポンセ・デ・レオン
                    ↑        
父:ペドロ・ポンセ・デ・レオン      母:サンチャ・ヒル・デ・チャシン


ポルトガル王ペードロ1世との悲恋で有名なイネス・デ・カストロはロドリゲスの異母妹。

tag : カタリナ イネス・デ・カストロ

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